善應寺の歴史
当照井山歓喜院善應寺は真言宗豊山派に属する寺で、寛文十年(1670)土浦城主 土屋但馬守数直 観音堂を建立、土浦城鎮護の祈願所とされる。これ以前の記録皆無の為、この年をもって当山開創としている。観音堂下の照井は寺の山号のいわれとなった井戸で臼井鏡井などと呼ばれている。貞亨二年(1685)観音堂焼失
本尊(伝 智証大師作 木造)亦消失す よって金銅を以て新たに観音像を鋳て焼け残った木造の首を胎内に収め、現在の観音堂本尊(秘仏)なり
宝永三年(1706)鐘楼堂建立
真鍋村善男善女の寄進により梵鐘を製作。昭和十七年太平洋戦争により献納するまで
現存す。
延亨元年(1744)宝筐印塔建立、現存
明和九年(1772)境内に光明真言一億萬遍塔建立、現存
寛政十二年(1800)正月の真鍋大火により観音堂、客殿、庫裡等境内建物全焼
文化元年 庫裡、仮客殿建立
文化十一年(1814)土屋相模守彦直により観音堂再建(現存)
嘉永五年 境内建物大修理
昭和五十一年 真鍋小学校創立百周年記念事業にて、同窓会より梵鐘再鋳され寄進される
昭和五十二年 客殿改築
平成六年 本堂・庫裡・鐘楼堂改築、観音堂修理し境内一新
平成十九年 山門新築
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善應寺の文化財
観音堂(土浦市指定文化財 建造物)
現存する観音堂は、文化十一年(1814)土屋相模守彦直により再建されたもの
佐久良東雄書(僧名 良哉) 扁額(土浦市指定文化財 書跡)
和歌、書道に秀でた20代住職。その後還俗して佐久良東雄と名乗り、尊皇倒幕運動に参加、萬延元年(1860)桜田事変に連座して獄死す。贈従四位
六地蔵石幢(土浦市指定文化財 工芸品)
観音堂西側小堂内にあり、花崗岩製で基礎・竿・中台・龕部・屋根・宝珠からなり
龕部に六地蔵が浮彫されている。製作は室町時代と推定されている。
照井(土浦市指定文化財 史跡)
観音堂下にある井戸で、臼井鏡井ともいわれる。水量豊富で日照りにも衰える事なく
古くから街道を行き交う旅人や住民の飲料水となってきた。
寛文十年(1670)に土屋但馬守数直によって土浦城までの間に樋が埋設され、土浦城内
上水道として用いられた。
この他、本堂西側に土浦市指定文化財 史跡として
「佐久良東雄の墓」
「大久保要の墓」
境内上墓地に
「木原老谷の墓」がある
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